BLue CaFe NeT

by HiRoo iNoue || ACTOR

「遅筆」問題について思うこと

いま巷では、小劇場界の「遅筆」問題について盛り上がっている。「公演中止」という、誰も得をしない、誰もが痛む、苦しい決断を下さざるを得なかった団体が続いた。外野から一方的にそれを非難したり批判したりすることは僕のすることではない。けれども、日常的にあちらこちらで起こっていて誰もを悩ますこの問題について語り合うことが、これを機会に「解禁」されるといいなあと思う。

僕は作家ではない。作家にはなれない。きっと絶対に書けない。ゼロから「世界」を立ち上げることの大変さは想像を超えるところにあり、その才能はただただ尊敬に値する。ひとつのセリフを書くことにかける時間の膨大さ、その産みの苦しみがどれほどのものか、いくら想像をしても、作家ではない僕に理解することは不可能だろう。それは揺るぎようのない事実で、いつでも僕は作家への敬意を忘れていない。

ただそのことと、「遅筆」を受け入れる、または許す、こととは問題の本質が違う。日本の小劇場の現場では、多くの場合、作家と演出家をひとりが兼ねている。作家としての仕事が終わらない限り、本当の意味で、その人は演出家になれない。書くための時間を確保するために、稽古が中止になることも少なくない。連絡がつかなくなったりもする。そして俳優は、格闘すべき戯曲がない(足りない)状態で、稽古も思うように進まないまま、ただ「書き上がる」のを待つという時間を何日も過ごすことになる。書きあがった部分に関しては稽古ができるだろうという意見もある。でも本来、俳優の仕事の第一歩は、戯曲全体を俯瞰し、物語や自分の演じるキャラクターを分析し理解し、その上で「演じる」ための準備を進めていくべきものだ。セリフを覚えれば演じられる、というものではない。作家(つまりは演出家)の頭の中には全体の世界ができているのかもしれない。でも俳優はそれを知らない。不均衡甚だしい状態のまま、不健全な稽古が進んでいく。そして、経験上遅筆の作家に多いことだけれど、書きあがって「演出家」になった途端、急に気が大きくなるのか、「俳優」に対してはとても厳しくなったりする。「俳優」が役を作っていくために費やす「時間」を許さない。自分にはその「時間」を制限を超えて許すのに、「俳優」にはそれを許さない。これは「俳優」という仕事に対するリスペクトの欠如であり、そして何より、作品全体のクオリティを著しく落としてしまう結果に繋がる。

我らが大将、谷賢一が「誰も本気で怒らないからいけない」というようなことを書いていた。それは違う。少なくない俳優は「本気で」怒っている。「本気で」困っている。昨日の、俳優の集う「遊び場」においても、この問題について話題が出て、白熱した議論になった。舞台に立ち、観客の前で責任を取るのは「俳優」なのだ。その俳優が、怒ったり困ったり不安に思ったり、しないわけがない。ただ、本が遅れている作家というのは大抵の場合精神的に多かれ少なかれやられているから、そのとき怒ったって、せっついたって、それは本が早く仕上がる方向に進むどころか、逆効果になることが多い。そのことを俳優は「知って」いるから、表面上は怒ったり意見をしたりするのではなく、腫れ物に触るように気を遣い、願うような気持ちで、祈るような気持ちで、「明日は何ページ出てくるかな」「いつ書き上がるかな」と、ただただ不安で寄る辺ない日々を過ごしているだけのことなのだ。作品のために、気にしていないフリをして、現場の空気が悪くならないようにして、精一杯我慢しているだけなのだ。そしてこの問題について俳優が怒ったり意見を述べたりすると「ああ、あいつは面倒くさいやつだ」と敬遠されがちだったりもする。俳優はそのことに怯えてもいる。作品のために闘う俳優と、面倒なことには触れないイエスマンと、結果どちらが作品に貢献するか。俳優とは、本質とはまったく離れたところで、実に辛い職業なのである。


この問題をどうやったら解決できるのかわからない。作家自身の認識、自己管理、スケジュール管理などもあるだろう。でもそういう個人の問題に止まらない、根深い問題のようにも思える。

ひとつは日本における異常なまでの「新作」主義。出たての若手作家ならいざしらず、熟練の成熟した作家が一年に何本も新しい物語を生み出せるとも思えない。そしておそらくは、作家のギャランティの低さがもうひとつ。一本書いても大したお金にならない。だったらたくさん書くしかない。または他の仕事(例えば演出とか)を入れるしかない。執筆にかけられる時間も、稽古にかけられる時間も、必然的に短くなる。作家・演出家・劇団主宰(プロデューサー)などをひとりで兼ねていて、執筆に集中できない人も多かったりするだろう。

ただ作家を責めるでなく、逆にこの問題について「仕方なし」と見過ごすのではなく、少しでもこの問題を解決していき、作品のクオリティを上げて、演劇界が今よりもエネルギーを高められるよう、変わっていけたらと個人的には願う。俳優が怒ったって、意見を述べたって、それは俳優のわがままではなく、ただただ「良い作品を作りたい」という思いでしかないことをわかってもらいたい。そしてこういう議論が活発に行われる世界になると嬉しい。「良い作品を作りたい」だけなのに、どこにも行けなくて俳優は苦しんでいる。無力であることに絶望している。先日とある公演を降板した友人のコメントを読んでいて、他人事ながら苦しくて仕方なかった。その決断に至るまでの彼女の格闘と、絶対に避けたかったであろうその決断を下した勇気を、僕は心から支持する。僕は僕で、自分の関わる小さな世界の中で、僕なりに出来ることを見つけてやっていきたい。僕たち俳優に何かやれることがあるならば、どんな俳優でもその労力を惜しまないだろう。


最後になるけれど、我らが谷賢一は、彼も自ら述べていた通り、こないだの作品の仕上がりは遅くなかったし、出来上がった作品は素晴らしいものであったし、彼自身がこの問題と向き合って格闘しているのがわかるので不満はない。そこに信頼がなければ劇団に入らない。また、僕が最近コンスタントにご一緒させて頂いている、serial number(風琴工房)の詩森ろばさんはあれだけの多作にも関わらず、基本的に稽古初日には最後まで書き上がっているし、T Factoryの川村毅さんは、稽古が始まる数週間前には台本が届いている。本当に素晴らしい。稽古をしながら書くことを前提に、稽古期間を最初から長く取っている団体もある。「再演」という形で作品を生まれ変わらせて大成功しているイキウメのような団体もある。解決できない問題ではないはずだ。

いちいち断りを入れなかったけれども、俳優すべてがこのように思っているわけではないだろうし、僕のまわりだけなのかもしれない。きっといろんな意見や考えがあるだろう。問題があれば、「俳優」という主語をすべて「僕」に変えてもらいたい。そして本来ならば、こんな内容の意見を、舞台を楽しみに観て下さっている方々や、いつか観てみたいと思っている方々の目に触れさせたくはない。でも、面白い作品を作るための格闘の一端として、期待を込めて見てもらえたら幸いだ。