BLue CaFe NeT

by HiRoo iNoue || ACTOR

『ノート』

T Factory
『ノート NOTE』 

2019/10/24~11/4 @吉祥寺シアター
http://www.tfactory.jp/data/note.shtml

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新作・演出
川村毅

出演(五十音順)
阿岐之将一
井上裕朗
植田真文学座
大沼百合子
笠木誠
下前祐貴
砂原健佑
林田一高文学座
深谷由梨香(柿喰う客)

スタッフ
照明: 原田 保
音響: 原島正治
衣裳: 伊藤かよみ
ヘアメイク: 川村和枝
演出助手: 小松主税
舞台監督: 小笠原幹夫/鈴木輝
宣伝写真: 蜷川実花
宣伝美術: 町口 覚/マッチアンドカンパニー
製作: 平井佳子/T Factory
提携: 公益財団法人武蔵野文化事業団
助成: 文化庁文化芸術振興費補助金(舞台芸術創造活動活性化事業)独立行政法人日本芸術文化振興会
令和元年度(第74回)文化庁芸術祭参加作品

日時
10/24(木) 1930☆
10/25(金) 1930☆
10/26(土) 1500★
10/27(日) 1500
10/28(月) 1930
10/29(火) 休演
10/30(水) 1930
10/31(木) 1500/1930
11/1(金) 1930
11/2(土) 1400/1830★
11/3(日) 1400/1830
11/4(月祝) 1500
※開場は開演の30分前
★ポストパフォーマンストークあり

☆モニタープレビュー全席自由

料金 (全席指定席)
5000円

☆モニタープレビュー全席自由(24日・25日のみ) 3800円
この作品は創り手から解説するのではなく、ご覧いただいた皆さんに言葉にしてほしい。 そんな思いからこの2ステージを設けました。 「#(ハッシュタグ)TFノート」を付けて発信ください!

■還暦祝ペアチケット・引換券=6000円 (お席は選べません。全ステージ適用)
みなさま還暦おめでとうございます! ぜひ久しぶりに劇場へ!
川村毅と同い年=1959.1.1~1960.3.31生まれの方と同伴者のペアチケット
※当日受付にて年齢確認できるものをご提示いただき指定席券(プレビュー回は自由席券)2枚と引き換えます。


■平成生まれ特別価格・引換券=3100円 (お席は選べません。全ステージ適用)
ぜひ「平成」を観てほしい世代へ!
※当日受付にて年齢確認できるものをご提示いただき指定席券(プレビュー回は自由席券)と引き換えます。


当日券は各+500円

●車椅子スペースのご案内
料金=一般料金 介助者は1名無料
●視覚障がい者の方 介助者1名無料
●聴覚障がい者の方 開演3時間前より劇場ロビーにて台本貸出 (販売予定有) 




閑話休題

DULL-COLORED POP vol.20『福島三部作』は、俳優として少し特殊な仕事だ。扱っているテーマの現代性、そして深刻さはもちろんだが、純粋に「演劇作品」としてみた場合にも、普段とは違った経験となっている。第一部『1961年: 夜に昇る太陽』ではほぼ全編を通して「人形」を使った演技となるので、普段と異なることはもちろんだ。第三部『2011年: 語られたがる言葉たち』は「演劇作品=フィクション」ではあるけれど、戯曲そのものの構造や内容が「ドキュメンタリー」に寄っているので、やはり普段とは少し違った「演技」を模索しているように思う。東京公演を通じて「思考」が止まらないので、備忘的な意味合いで書き列ねてみる。


◎「人形」を使った演技
昨年の先行上演の創作時、作品の中に「人形劇パート」があると知ったとき、そして自分がほぼ人形の「黒衣」としての演技になると知ったとき、正直言ってかなり戸惑いがあった。未経験による不安ということもあったがそれ以上に、「人形劇」に人生をかけてやっている人たちがいるというのに、自分のような素人が軽々しくそこに手を出しては、彼らの仕事への「冒涜」のような気がしたからだ。でも、昨年の先行上演を通して、そして今年の再演を経験して、今では得難い経験ができていることに感謝をしている。

昨年の経験と反省を踏まえ、今年特に気をつけていたことは「目線」だった。人形の作りの問題と僕自身の技術・体力の問題から、昨年はどうしても目線が上にずれてしまう問題があった。僕に人形の扱いを指導してくれた人形師の方から昨年の本番時に指摘されたことでもあり、今年は何としてもそこを改善したいと思っていた。

それに加えて、「何を(どこを)」「どのタイミングで」「どう」見るか、ということを昨年以上に完璧にしたかった。まっすぐ見るのか見上げるのか。ゆっくり向くのか急に向くのか。近くを見るのか遠くを見るのか。そしてまた「人形遣いである僕自身が、人形と同じものを見るのか見ないのか」についてもこだわった。今年再び「師」が観てくれたのだが、昨年僕にくれたダメ出しを覚えていてくれて(驚いた)、この点については改善・成長していると褒めてくれた。

そして新たに今年加わった課題が「勇気を持って止まること」と「人形の意志を首で表現すること」だった。前者については、人形が「生きている」と思わせるために、つい、人形を動かす「手」を止めることを怖れてしまう。「自然主義的」な動きを人形にさせようと焦ってしまう。けれど、選ばれた「姿」で止まっている人形からは、「想像力」が掻き立てられて観ている側がさまざまなことを補ってみてくれて、逆に人形が「生きてくる」という。昨年も聞いた教えであったけれど、今年はより具体的に、あのセリフのところは止まって言った方が良い、などとアドバイスをもらったおかげで、よりそのことが理解できたように思う。人形を「止める」ことは「動かす」ことよりも身体的には大変で、左手や腰はもちろん全身が悲鳴を上げてしまうのだけれど、劇場にいる観客たちが人形に視線を集め、そこから想像力を膨らませてくれていることが肌で感じられて、演じていて大きな喜びを感じる瞬間でもある。僕のような素人が軽々しく足を踏み入れてしまっている怖れは消えていないけれど、昨年以上に「人形」を使った演技が楽しくなっている。


◎人形である「僕」
「人形」を遣う経験をしたことで、自分自身の身体を使った普通の演技においても、勉強になることがたくさんある。もちろんそれは当たり前だ。歌舞伎そのものがそういうものであるし、そのことに軸足をおいて演劇を立ち上げている人たちもいる。昨年の先行上演の際から考えていたことだけれど、今回の第三部を同時上演していることで、そして人形を遣う際の気づきが増えたことで、その考察もまた先に進んでいるように思う。

「人形」は動きが限られている。表情は動かないし身体の動きも相当に限定されている。その「縛り」の中で、いかに動けば彼自身の「行動」や「心情」が「伝えられる」か。または「想像を促せる」か。そのことを考えて、時に大胆に、時に遊び心をもって、時に勇気をもって動かずに、人形を動かしている。そうすると、普段演じているときにはまるで出てこない発想が出てきたりする。当然のことながら、人形にどのような動きをさせても「羞恥心」のようなものは生まれてこないし、「自我」が邪魔をして躊躇することもない。

第三部が開幕したあと、空いた時間を使って第一部の通し稽古をしたことがあった。人形は劇場から持っていけなかったので、人形なしで稽古をすることになったのだが、それを逆手にとって、人形にやらせている動きを生身の僕がやって全編通すことにトライしてみた。当然彼にはできるのに僕にはできない動きもある(僕は首を180度回すことはできない)が、この稽古は僕にとってものすごく大きな気づきをもたらすものとなった。

第三部における僕の役は、これまで演じたきた役と「何か」が違う。それは、描かれているテーマに依存するものではなく、この作品の「構造」であったり、僕の役の「ポジション」みたいなものであったりに依るような気がするが、まだ僕にもよくわからない。稽古場でも劇場でも、何か大きく足りないピースがあるような気がして不安だった。それを埋めてくれたのが、僕自身の身体を「人形」と見立ててみる(という発想を取り入れる)ことだった。リアリズムの演劇においても、特に今回の第三部においては、非常に有効なアプローチとなる気がした。

「人形」に対して僕自身がやろうと心がけていること。それをそのまま僕自身に当てはめる。単純に「見え方」「見せ方」という意味ではなく、人形を「生きている」ものにするためにやっていることを自分自身にあてはめれば自分自身もまた「生きている」ものになるだろうという発想。そして、そのベースとなる「観客の想像力」というものを信じ、そこに委ねるための勇気を持つということ。「説明しない」「表現しない」「無駄に動かない」「呼吸とともに動く」演技そのものの基本に改めて立ち戻ること。第三部における僕の身体の動きは、最終的にかなり少ないものになっている。約2時間舞台上にいることを考えると、あの動きの少なさは、場合によっては「さぼってる」と思われる危険性すらある。普通の作品ではなかなかそこまでの挑戦は出来ない。だが今回の第三部においては、それがおそらく機能するだろう、有効であるだろうと信じ挑戦をしている。尊敬するアメリカ人の演出家がよく言っていた「Less is More」という名言を思い出す。シンプルな表現であればあるほどより豊かなものだ。それをどこまで信じられるか。


◎感情表現/声
「感情」や「状態」は演じられない。演じられるのは「行動」のみ。「感情」や「状態」はその結果にすぎない。ということは『演技の基本』として良く語られていることだけれど、日本の演劇界においては、感情表現=演技、という風潮があって、そちらの方がメインストリームなのかもしれない。そしてもちろんそれは、演技論の1つとして正解の可能性の1つなのであるが、今回の第三部に関しては、僕はそうであってはいけないものなのではないかと個人的に信じている。

震災・原発事故という、時間的にも地理的にも精神的にも近しい大きな「現実」があって、それを実際に経験した人たちを「演じる」にあたって、その当事者の抱えている大きな「感情」を知ろうとすることはもちろん必要なのだろうが、それを「表現」しようとする義務感や欲求からいかに逃れるか、ということが僕自身の今回の大きな課題となっている。僕の演じる役には実在のモデルがあり、フィクションの部分ではあるけれど、50年の時を通して描かれている大きな「物語」もある。自分の人生経験からは計り知れない「感情」がそこには生まれてきているだろうと感じる分、それを「表現」しなければいけないのではないかというプレッシャーは、僕だけでなく俳優ならば誰しも理解できるものだと思う。

だけど、今回の作品では何とかしてそこから逃れなければいけない。彼が抱えているであろう「感情」は、どんなに頑張ったって僕にはわからないのだ。もちろんたくさんの準備をして、想像力を働かせて、そこに近づこうと最大限努力する。けれども最終的にそこには全然辿り着けないということを受け入れることもまた必要なのだ。それは俳優の仕事を放棄するという意味ではなく、描いていることの大きさに、登場する人物の苛酷な人生や苦しみに、圧倒されて敗北することが必要だと思うからだ。

僕に出来ることは、僕自身の身体と心と想像力を使って、彼が求めているものを求め、そのために行動を起こし、戯曲に書かれている時間を実際に過ごすこと。そこにただただ身を置いて、自分をなすがままにさせること。そのことで巨大の悲劇の一端でも感じられたら、と願うこと。そして自分自身を含めた劇場全体で、そのことを想像すること。それしか出来ることはないと覚悟を決めること。どんな作品においても似たようなことを考えながら演じているけれど、特にこの作品については、日々どうすればそれが出来るのか格闘を続けている。

感情表現をベースにした演技はとても派手でわかりやすい。大きな声は届きやすい。でもこの作品のテーマのひとつは、『過激さや単純化に走らず、ただ耳を澄ませてみよう』ということだ。少なくとも僕の役の信念はそこにある。それを演じる僕がそれと相反することをやってしまったら、作品全体が死んでしまうはずだ。

届かないかもしれないか弱い声、伝わらないかもしれない小さな動き、でもそれが届くこともあるはずだと祈り願って勇気を持って舞台に立つこと。青臭いかもれしれないが、それが、第三部を福島の人たちの前で演じるにあたって、僕自身に持てる最大限の誠意だと思っている。





『福島三部作:一挙上演』

DULL-COLORED POP 第20回本公演 /福島三部作・一挙上演
第一部『1961年:夜に昇る太陽』
第二部『1986年:メビウスの輪
第三部『2011年:語られたがる言葉たち』

2019/7/6〜7/7, 9/7〜9/8 @いわき芸術文化交流館アリオス 小劇場(福島)
2019/8/8〜8/28 @東京芸術劇場シアターイースト(東京)
2019/8/31〜9/2 @in→dependent theatre 2nd(大阪)  
http://www.dcpop.org/vol20/#more-1272

第一部『1961年:夜に昇る太陽』
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1961年。東京の大学に通う青年・<穂積 孝>は故郷である福島県双葉町へ帰ろうとしていた。「もう町へは帰らない」と告げるために。北へ向かう汽車の中で孝は謎の「先生」と出会う。「日本はこれからどんどん良くなる」、そう語る先生の言葉に孝は共感するが、家族は誰も孝の考えを理解してくれない。そんな中、彼ら一家の知らぬ背景で、町には大きなうねりが押し寄せていた……。
福島県双葉町の住民たちが原発誘致を決定するまでの数日間を、史実に基づき圧倒的なディテールで描き出したシリーズ第一弾。


第二部『1986年:メビウスの輪
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福島第一原発が建設・稼働し、15年が経過した1985年の双葉町。公金の不正支出が問題となり、20年以上に渡って町長を務めてきた田中が電撃辞任した。かつて原発反対派のリーダーとして活動したために議席を失った<穂積 忠>(孝の弟)は、政界から引退しひっそりと暮らしていたが、ある晩、彼の下に2人の男が現れ、説得を始める。「町長選挙に出馬してくれないか、ただし『原発賛成派』として……」。そして1986年、チェルノブイリでは人類未曾有の原発事故が起きようとしていた。
実在した町長・岩本忠夫氏の人生に取材し、原発立地自治体の抱える苦悩と歪んだ欲望を克明に描き出すシリーズ第二弾。


第三部『2011年:語られたがる言葉たち』
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2011年3月11日、東北全体を襲った震災は巨大津波を引き起こし、福島原発メルトダウンに追い込んだ。その年末、<孝>と<忠>の弟にあたる<穂積 真>は、地元テレビ局の報道局長として特番製作を指揮していたが、各市町村ごとに全く異なる震災の悲鳴が舞い込み続け、現場には混乱が生じていた。真実を伝えることがマスコミの使命か? ならば今、伝えるべき真実とは一体何か? 被災者の数だけ存在する「真実」を前に、特番スタッフの間で意見が衝突する。そして真は、ある重大な決断を下す……。
2年半に渡る取材の中で聞き取った数多の「語られたがる言葉たち」を紡ぎ合わせ、震災の真実を問うシリーズ最終章。



作・演出
谷賢一(DULL-COLORED POP)

出演
第一部『1961年:夜に昇る太陽』
東谷英人
井上裕朗
内田倭史(劇団スポーツ)
大内彩加
大原研二
塚越健一
宮地洸成(マチルダアパルトマン)
百花亜希(以上DULL-COLORED POP)
阿岐之将一
倉橋愛実

第二部『1986年:メビウスの輪
宮地洸成(マチルダアパルトマン)
百花亜希(以上DULL-COLORED POP)
岸田研二
木下祐子
椎名一浩
藤川修二(青☆組)
古河耕史

第三部『2011年:語られたがる言葉たち』
東谷英人
井上裕朗
大原研二
佐藤千夏
ホリユウキ(以上 DULL-COLORED POP)
有田あん劇団鹿殺し
柴田美波文学座
都築香弥子
春名風花
平吹敦史
森 準人
山本 亘
渡邊りょう

日時
【福島】いわき芸術文化交流館アリオス 小劇場)
7/6(土) 1830(第二部)
7/7(日) 1400(第二部)

【東京】東京芸術劇場シアターイースト)
※受付は開演の45分前、開場は開演30分前。

8/8(木) 1900(第二部)
8/9(金) 1900(第二部)
8/10(土) 1300(第二部)/1800(第二部)
8/11(日) 1300(第二部)/1800(第二部)
8/12(月) 休演
8/13(火) 休演
8/14(水) 1900(第三部)
8/15(木) 1400(第三部)/1900(第三部)
8/16(金) 1900(第三部)
8/17(土) 1300(第三部)/1800(第三部)
8/18(日) 1300(第三部)/1800(第三部)
8/19(月) 休演
8/20(火) 休演
8/21(水) 休演
8/22(木) 休演
8/23(金) 1300(第一部)/1600(第二部)/1900(第三部)
8/24(土) 1300(第一部)/1600(第二部)/1900(第三部)
8/25(日) 1300(第一部)/1600(第二部)/1900(第三部)
8/26(月) 1300(第一部)/1600(第二部)/1900(第三部)
8/27(火) 1300(第一部)/1600(第二部)/1900(第三部)
8/28(水) 1100(第一部)/1330(第二部)/1600(第三部)
☆終演後、トークディスカッションあり
◎終演後、ゲストを招いてのアフタートークあり
 8/8    永井愛氏(劇作家・演出家・二兎社主宰)
 8/10  白井晃氏(演出家・KAAT神奈川芸術劇場芸術監督)
 8/17  大森真氏(元テレビユー福島報道局長/現飯舘村職員)

 8/25  長塚圭史氏(劇作家・演出家・俳優/阿佐ヶ谷スパイダース


【大阪】
(in→dependent theatre 2nd)
※受付は開演の45分前、開場は開演30分前。

8/31(土) 1300(第一部)/1600(第二部)/1900(第三部)
9/1(日) 1300(第一部)/1600(第二部)/1900(第三部)
9/2(月) 1000(第一部)/1230(第二部)/1500(第三部)
☆終演後、トークディスカッションあり

【福島】いわき芸術文化交流館アリオス 小劇場)
9/7(土) 1830(第三部)
9/8(日) 1400(第三部)

スタッフ
美術: 土岐研一
照明: 松本大
音響: 佐藤こうじ
衣裳: 友好まり子
舞台監督: 竹井祐樹
演出助手: 美波利奈
宣伝美術: ウザワリカ
制作助手: 柿木初美/德永のぞみ/竹内桃子(大阪公演)
制作: 小野塚央

助成: セゾン文化財
助成(東京): アーツカウンシル東京(公益財団法人東京都歴史文化財団芸術文化振興基金
助成(大阪): 芸術文化振興基金
主催(福島): いわき芸術文化交流館アリオス
主催(東京・大阪): 合同会社 DULL-COLORED POP

料金
【東京】
東京芸術劇場シアターイースト)全席指定席
一般: 4200円
学生: 3500円
高校生: 2000円(チケットぴあでのみ取り扱い)
3公演通しチケット: 10000円(各日100枚限定)
当日券: 4500円
※学生チケットをご購入の方は、当日受付にて座席指定チケットをお引き換えください。
※未就学児入場不可。
※開演いたしますと、ご指定のお席にご案内できない場合がございます。
※8月28日は通し券のみ発売します。

【大阪】(in→dependent theatre 2nd)整理番号付自由席
一般: 3800円
学生: 3300円
3公演通しチケット: 9800円(各日80枚限定)
当日券: 4300円
※未就学児入場不可。
※9月2日は通し券のみ発売します。

【福島】いわき芸術文化交流館アリオス 小劇場)全席自由席
一般: 3000円
高校生以下: 1000円
第二部&第三部セット券: 一般4500円/高校生以下1500円




actors' playground 雑感

先日、actors' playground 11thを終えた。通し番号に入らないものを加えると、16回目の企画だった。回を重ねるごとに僕自身学ぶことがあり、悩みながら改良を加えて今に至っている。

 

俳優がワークショップ的なものをやることについて、さまざまな意見がある。僕がこの企画を始めたとき、驚くべきことに、俳優たちよりも、プロデューサーや演出家の人たちから、この企画を応援してくれる声をもらった。とても力強かった。

 

でも回を重ねるごとに、それは俳優の自己満足だ、観客を疎外している、自己啓発で信者を集めて悦に入っている、などの声も聞こえてくる。

 

俳優たちは、戯曲の登場人物たちを背負って声を発しなければいけない職業である。演劇というものは多かれ少なかれ、声を失った人たちの声を救い上げる芸術であろうと思う。でも実際の演劇界は、それ以外の世界以上に、旧態依然としていて、特に弱い立場に立たされた俳優たちは声を失っている。その俳優たちが、自分たちの声を取り戻そうと、あちこちでもがき苦しみながら、なんとか一歩を踏み出そうとしている。その葛藤に対し、近しい立場の人たちが、俳優の自己満足であるとか、自己啓発にすぎないなどと批判的な目で眺めているのは、どこまでも悲しいことでしかない。

 

それは僕自身の人望・人徳の結果なのかも知れないが、僕はそんなにバカではないし、何よりこの場に参加してくれている俳優たちの想いは、そんなに軽く、浅いものではない。

 

僕たちは、もっと純粋に、もっと先の理想を追い求めている。弱きものたちをいじめることはとても簡単で、その正しさに酔いしれることも理解は出来るけれど、でもどうか、この弱き俳優たちが理想を追い求めることに対し、声を発しようともがくことに対し、大局に立って、理解し受け入れてくれることを願うばかりだ。僕たちはそんなにバカじゃない。

 

そんなことを改めて思わされるような、みなが苦しみ抜いた今回の遊び場だった。誰も自己満足で終わってなんかいない。

DULL-COLORED POP『あつまれ!「くろねこちゃんとベージュねこちゃん」まつり』創作メモ 〜演出編

僕は、4年ほど前に「actors' playground」という、俳優だけが集まって「演劇」について「演技」について深く追求していく企画を立ち上げました。俳優とはどういう仕事なのか。俳優にとって必要なものはなんなのか。足りないものはなんなのか。そんなことを俳優同士で見つけあっていく「遊び場」にしたいと思い、断続的に今も続けています。僕にとってひとつの拠り所となっているこの企画で、2016年1月に一度劇場公演を行いました。それは今回のねこまつりととてもよく似た企画で、2作品で計4チーム、30人以上の俳優が参加したものでした。僕は1作品で演出を、もう1作品では出演をしました。このあたりも似ています。今回のねこまつりでは、このときの経験と反省が大きく活かされました。特に「演出」はそのときに続いての2回目だったので、前回できなかったこと、失敗してしまったことを踏まえて、今回こそは!と挑んだ作品でした。僕の備忘録として、創作メモを残しておこうと思います。

++++++++++

僕はもともとこの作品を初演・再演とも観客として観ており、今回演出するにあたり初演の映像を繰り返し観たのだが、誤解を怖れずに言うと、僕はこの作品がまったく好きではなく、この企画を最初に聞いたときも、出来れば他の作品を演出させてほしいと提案したぐらいだった。で、結果的にこの作品をやるとなったときにまず考えたのは、オリジナルバージョンを大きく変えて作りたい、僕なりの解釈で再構築したいということだった。今回は「まつり」ということで、僕の演出作品だけでなく合計4バージョンも作られる。谷バージョンはもちろん、初演・再演に出演している東谷・百花もオリジナルに沿った作品を作るだろう。だったらその中に1チームぐらい、まったく違う毛色の作品が混じっていてもいいだろう。いや混じっていた方が面白いだろう。それがこの作品の「正解」でなかったとしても、そこに挑戦することは「この企画としての」正解にはなるだろう。それがまずスタートになった。

演出をするにあたって戯曲を読み返し、オーディションの前に僕が決めていた方針はいくつかあって、

・リアリズムを追求した会話劇として再構築する。
・男性が演じることを前提に書かれた「よし子(母)」を女性にする。
・これまで女性2人が演じてきたねこたちを、男女のペアにする。
・「ゆき男(父)の死」を物語の軸に置く。
・登場人物全員が互いに愛し合っていて、そこに「悪意」は存在しない。

あたりのことを大きな方針として決めて、オーディションに臨んだ。僕の中でそれぞれのキャラクターがはっきりしていたので、オーディションでの選考にはほぼ迷わなかった。ねこの役は、ねこを演じ、同時に母を演じなければいけないので、特に男性にキャスティングすることにした「黒ねこ」は選考が難しく、オーディション外から結城洋平くんを呼んだ。また今回、「ゆき男(父)」の役に負ってもらう部分が(出番は少ないけれども)とても大きかったので、やはり選考が難しく、この役もオーディション外から斉藤直樹さんを呼んだ。でもそれ以外の役は、僕のイメージぴったりの人たちがいて、迷うことなくキャスティングを決めることが出来た。初めてオーディションで出会った人たちも数人いたが、今思えば、このキャスティングの時点で、今回の作品はある程度保証されていたのだなあと思う。最高のキャスティングを揃えて、稽古を始めることができた。

++++++++++

稽古スタートは1月8日。稽古期間としては長めの設定をしたが、4チームがひとつの稽古場をシェアしながら稽古を進めたので、1チームあたり稽古できるのは1回5時間程度、2日に1回ぐらいのペースだった。稽古の環境としてはベストとは言えない環境の中で、しかも潤沢な稽古時間が確保できない中で、どのように進めていくのかが鍵だった。

今回の作品は「家族」という、一番近しい間柄の、社会の最小単位を扱ったものだ。そして「父親の死」によって、遺された家族がどう思い、どう行動していくのかがこの作品の軸となる。となればまずは、父親を含めた家族を演じる俳優たちが、まずは「家族になる」ことからスタートしなければいけない。

なのでまずは、この家族たちがそれぞれどういう人物なのか。どのような人生を生きてきたのか。父と母はそれぞれどのような育ち方をして、どのように出会って、いつ結婚して、いつ子供たちが生まれて、子供の成長とともにこの家族がどういう時間を過ごしてきたのか、徹底的に話し合った。そして父親が死んだ日からこの物語で描かれる日までの1週間がどのような日々であったのか、ここについても徹底的に話し合い、エチュードを重ね、演じるにあたっての土台を作っていった。家族を演じる俳優たちが少しでも「家族」に近づけるように、たくさんのエクササイズやエチュードをやり、共通の記憶を作ったり、関係性を作ったり、身体の感覚を作ったりした。

今回の作品には、死んだ父親がまだ生きていた頃の「回想シーン」が登場する(4場・7場・10場)。その回想シーンにおいて、母の役をねこたちが演じることになるのだが、まずはこの3つのシーンから稽古をスタートした。最初はねこたちではなく、母役の清水直子さん自身に全てのシーンを演じてもらって稽古をした。

この家族たちのシーンにかけた時間は膨大で、しかも具体的なシーン稽古以外にかけた時間が膨大で、とにかくたくさん話をして、たくさんエクササイズやエチュードをした。そのことが今回の作品の土台を作ることに繋がった。具体的にどこのシーンのどの部分に役立ったか、とかではなく、全ての瞬間がこの土台の上に乗っていた。一見遠回りなような、無駄な稽古のようであり、俳優たちも不安に思ったこともあったと思うが(僕も含めて)、結果このやり方は間違っていなかったと確信している。

「父と母の初デート」とか、「父の死体と対面したあと帰宅した家族3人」とか、「父の病気を診断されたあとの夫婦」とか、「父の葬儀」とか、さまざまなエチュードをやったけれど、そのどれもが素晴らしいもので、僕は今でもその光景がはっきりと記憶に残っている。それが今回の作品の血となり骨になっていたと思う。清水直子・斉藤直樹・渡邊りょう・橋本ゆりか、という、繊細で、誠実で、優しくて、賢くて、温かい4人がこの家族を演じてくれたからこそ、この作品は成立したのだと僕は心から感謝している。互いが互いを「愛している」「愛されたい」ことから生まれる「悲劇」としてこの作品を作りたかった。「愛」があるのに生まれる悲劇であることが僕にとっては重要なことで、そのためには4人がまずは「家族」であることが必要であった。この4人の作った家族は、本当に素晴らしい「家族」だったと思う。

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家族ではない「他人」として登場する、まち子(長男の嫁)と高梨(家政夫)は、オリジナルのバージョンと比べて、まるで違う人物にしようと考えた。

まち子は、オリジナルバージョンでは「悪妻」として描かれるが、僕はまるで逆の人物として作りたかった。夫を愛し、夫の母である姑のことを気遣い、常識があって魅力があって、他人の気持ちを慮れる女性として描いた。姑とは生きてきた環境が違い、生きてきた時代が違い、完全に価値観が相容れない。でもだからと言って、そのことに対して否定もしなければ、過度に理解しあおうとも思わない。ただ「違う」というだけ。姑のことを気遣いもするが、でも大事なのは、自分と夫との間の「未来」の人生。「母」は過去に縛られて、過去を想って生きているが、「嫁」は未来が何よりも大切。それこそが、よし子(母)とまち子(嫁)の間に横たわる大きな「違い」であり、それはどちらが正しくてどちらが間違っているものではない。当たり前のように存在する差異。「他人」だからこそ、その違いを冷静に受け入れて、違ったままでいいと判断できる。そういう人物としてまち子を描きたかった。演じた野村由貴は、オリジナルバージョンから大きく変えたこの役を、見事に演じてくれて、僕の思う人物像を具現化してくれた。

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高梨もまた、オリジナルバージョンではかなり「怖い」人物として描かれ、よし子からの重なる愚弄に対して最後しっぺ返しを食らわす役として描かれるが、僕は最初からまったく違う人物像を考えていて、それを何とか立ち上げようと試みた。まずキャスティングの段階から大きく気にしたのが、高梨は、ゆき男を思い出させる存在だということ。ゆき男と高梨を「似た」人物に設定しようとしたことだった。このふたりには「カメラ」という共通点が設定されている。写真家になりたかった夢があり、その夢に破れたという共通点がある。おそらく他人に対して優しくて、柔らかくて、繊細な一面も共通しているであろう。よし子がなぜ高梨に心を許すかと言えば、それは死んだ夫に似ていたからだ、というのが僕の解釈だった。なので、この二役に似たタイプの俳優(斉藤直樹・細井準)を置き、衣裳や小道具、登退場に至るまで、二人のイメージを重ねた。そして最後高梨が暴力を働くところも、詳しくは書かないが、高梨という人物にたくさんのバックグラウンドを設定することにより、単なる暴力ではない、彼の中にある巨大のドラマを設定した。演じた細井準は、この難しい役を本当に良く理解してくれて、彼からのアイデアも取り入れつつ、僕の描いたこの人物を作ってくれた。

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今回、どこかファンタジーの要素もあるこの作品をリアリズムで構築していこうというときに、やはり問題となるのは「ねこ」という存在だった。でも僕は思い切って、ねこも含めてリアリズムで攻めていこうと決めた。そのことにより逆に「ねこ」という存在を成立させられるのではないかと考えた。

この戯曲における「ねこ」は、当然のごとく主人公であるよし子の「分身」だ。ねこと会話している「茶番シーン」と呼ばれているところは、よし子が、よし子自身と対話しているシーンである。それに加えて当初から考えていたのは、よし子にとって、ねこたちを「理想の息子・娘」にしようということだった。実際の息子と娘はよし子にとって厄介な存在となっていくが、ねこたちはよし子の理想の姿のままでいてくれる。そういう意味で、僕は絶対的にねこたちを男性と女性にキャスティングすることが必要だった。

その上で僕が「ねこ」を考える上でさらに追求したのは、なぜあそこでねこが現れ、なぜあそこでねこが去っていくのだろうか、ということだった。そしてねこたちはよし子に何をしているのだろうか、どうなればハッピーなのだろうか。

僕は「ねこ」を人間よりも「強く大きな」存在として描こうと思った。ねこたちは人間よりもずっと過酷な環境で生きている。そこを生き抜いてきた「黒ねこ」と「茶ねこ」はそれぞれに、人間よりも深い「人生哲学」を持っている。「茶番シーン」は、よし子が自分の分身と話しているのと同時に、よし子よりももっと「強く大きな」存在であるねこたちが、よし子に対して「人生哲学」を語っている、教えているシーンなのだと僕は考えた。この作品の1場は、よし子とねこ2匹の3人でスタートするが、僕はこのシーンを「哲学論争」のシーンと名付けて稽古をしていた。『いかにして生きるか』という巨大な問いに対して、それぞれが自らの哲学を語る。よし子が主に喋っているのだけれど、実はねこたちの哲学の方がさらに先を行っていて、だからこそねこたちは余裕をもってよし子を見守り、彼女の話を聞いている。そういう、強くて大きくて、だからこそ優しい存在として「ねこ」を描いた。

僕のバージョンでは、特に後半、ねこたちは舞台上において、特に派手な動きもなく進んでいく。他のバージョンではあれだけ動き回っているから、それと比べるとあまりにも地味な描き方に見えるかもしれない。実際SNS上で「ねこの描き方が不満。ただ見ているだけで介入もしない」みたいな感想を読んだりもした。でもあれこそが僕が「ねこ」に託した役割だった。人間よりも先に行っているねこたちは、人間たちの生き方をただ「見て」ただ「受け入れている」。そこに対して「判断」を下さない。善悪を「裁かない」。ただ「見ている」。全てを理解して、受け入れて、でも肯定もせず否定もしない。言ってみれば「神の視点」のような存在として「ねこ」を置いた。作品の中で描かれる巨大な「問い」に対して、ねこたちは答えを出さない。答えはない。答えを出さないまま、答えがないまま、ねこたちは舞台を降りていく。それが僕の描きたかった「ねこ」だった。

黒ねこを演じた結城洋平と、茶ねこを演じた瑞帆は、どちらも僕がもともと知っていた俳優で、いわゆる普通の意味での猫っぽさもあり、母親を演じるにあたって必要な愛情深さもあり、そして今回僕が「ねこ」に託したかった「強く大きな、そして賢く冷静な」存在をも演じられる俳優であることを僕は最初から知っていた。それでも、実際それを立ち上げるのはとても大変な作業だったことと思う。ねこのセリフは、ぶっ飛んだ変なセリフが多い(良い意味で)。そのセリフを使って、ここに書いたようなことを「行動」として起こしていくことを要求したわけで、それは本当に難しいことであったと思う。それを素晴らしくやり遂げてくれて感謝しかない。

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今回僕は、作家である谷くんの了承を得て、だいぶテキレジを加えた。セリフをカットしたり、セリフを入れ替えたり、既にあるセリフを別の人物のセリフに変えたり。一部ではあるけれど僕自身がセリフを加えたりもした。でも逆に、谷くん本人が上演にあたってカットしたセリフを、僕は復活させたりもした。テキストに手を加えることを快く受け入れてくれた作家谷賢一の度量の深さに、この場を借りて感謝したい。

テキレジだけでなく、演出全体についても、これだけ大きく変えているのにも関わらず、何一つ文句を言わないどころか「全く問題ない。面白い」と言って背中を押してくれた。途中僕自身がちょっと悩んでいたときも「順調に進んでいて何の問題もないではないか」と励ましてくれたりもした。これだけ異なる美術プランを提示したことで、予算的なことや実務的なことで反対されるかもしれないとビクビクしていたが「これだけ世界観がはっきりしているのは素晴らしい。可能な範囲でお金をかけて追求しなされ」と言ってくれた。劇団主宰であり、作家であり、総合演出である谷くんから、全稽古期間を通じて肯定と励ましをもらい続けたことが、僕にとっては大きな力となった。本当にありがとう。

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今回特にこだわったのは、いかにして「ゆき男(父)の死」を軸に据えるかということで、オープニングについてはものすごく時間をかけて考えた。こんなにテキストをカットしたというのに、なぜか「前説」だけは作家に敬意を表して残そうと思っていたので、どうにかして前説を使ってそれが表現できないかとかなり悩み抜いた。結果、あのような「前説」が出来上がった。

そして、ゆき男の死によってねこたちが現れ、よし子とねこが「出会う」というシーンをどうしても作りたくて、最初の1分半ほどのパフォーマンスを作ったが、ここにもかなり時間がかかった。僕の中ではっきりとしたイメージがあったが、それを具現化するにあたっては、元ダンサーであり身体を使うことのプロである直樹さんに多大なる協力をしてもらった。僕と直樹さんの共同演出シーン。直樹さん、ありがとう。

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また、今回僕が個人的に泣きついて、音源の編集から劇場でのセッティングに至るまで、ボランティアでたくさんの力を貸してくれた音響家、シュガーこと佐藤こうじにも感謝が尽きない。彼は、2016年の僕の企画のときにも全面的に力を貸してくれた。今回も忙しい中、僕のめんどくさい要求をいちいち聞いて音源の編集をしてくれた。ありがとう。

そして、僕のチームだけでなく4チーム全体の照明プラン、そして全ステージのオペをやってくれた榊美香ちゃん。風琴工房/serial numberで何度も現場はご一緒しているけれども、今回は慣れない「演出家」としてみかちゃんと接することとなり、ものすごく緊張した。僕の拙い言葉で、何とか伝えようとしたイメージを、汲み取ってくれて、形にしてくれて、そして毎回作品に寄り添って明かりを出してくれて本当に感謝が尽きない。このハードスケジュールの中、ギリギリまで修正や変更、そして稽古をして迷惑もかけた。本当にありがとう。

最後に、今回僕自身とても大変になるだろう、誰か僕の助手みたいなことをやってもらえる人がいてほしいということでお願いした杉森裕樹くん。彼自身俳優であり、以前僕の企画の公演に参加してもらったときに、ダントツで作品への愛情を持って関わってくれた彼に今回声をかけてみたら、喜んでOKをしてくれて、僕の期待を遥かに超える働きぶりを見せてくれた。彼がいなければ、こんな風にうまく日々の本番は回せなかったことは間違いない。たくさんの愛情、本当にありがとう。

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今回集まってくれた8人の俳優たちは、本当に僕好みの、素晴らしい俳優たちだった。僕の好みで選んでいるからなのか、なんかみんなちょっとずつ似ていて、最初から統一感のある雰囲気が生まれていた。相性も良くて、エクササイズやエチュードなどでは、何度も大笑いさせてもらい、何度も涙を流した。最高だった。演出の立場にいながら、僕も俳優としてこの座組みに混じりたい、とまで思った。

稽古中はもちろん、本番に入ってからも、僕の細かくて、容赦ない演出に付き合ってくれた。本番に入ってからはまったく時間がなかったので、毎日LINEでノート(一般的にはダメ出しと言われているものです)を送っていた。毎日最低でも10000字は超えるものだったと思う。セリフのひとつひとつ、間のひとつひとつ、動きのひとつひとつ、細かいところまでねちねちとしつこく最後まで追求し続けた。でもそのおかげで、日々作品は成長を続けていった。大変だったと思うけれど、僕を信じて、委ねてくれて、格闘を続けてくれて、本当にありがとう。ありがとうございます。

今回の作品に僕は満足しているけれど、「理想」とするものへはまだ先がありました。でも理想というのは遥か遠くに存在するものだろうから、これからも引き続き、先を目指して切磋琢磨していきたいと思っています。その過程でまた、今回の仲間たちと共に格闘できたら。このメンバーで劇団作りたいぐらい。またどこかで。

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最後になるけれど、今回予算の都合もあり、舞台上には僕の家のものが溢れかえっていた。舞台上手に置いてあった籐の椅子は父が死ぬまでずっと座っていた椅子、ローチェストもうちのもの。直樹さんが着ていた服も父の遺品。飾っていたものもたくさんうちから持っていった。

飾ってあったカメラは直樹さんのお父上の遺品。着ていたシャツもお父様の遺品。

今回の作品を作るにあたり、昨年僕自身が父を亡くしたことは否応にも大きな影響を与えました。

稽古でも何度も話したことなのだけれど、「よし子(母)」の愛ゆえの「エゴイズム」や、「けん太(息子)」「とも美(娘)」の愛ゆえについてしまう「嘘」や、「高梨」の愛ゆえに働いてしまう「暴力」や、そういうあれやこれやを何とか『肯定』できないかと考えたのは、父を亡くしたことが大きな契機だったと思う。

お父さんにも、ありがとう。
寝床を貸してくれたうちの「黒ねこ」にも、ありがとう。

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