BLue CaFe NeT

by HiRoo iNoue || ACTOR

ぼくは時々おもう

いつもお世話になっている演出家の父上が先日亡くなられ、今日、その通夜に参列させて頂いた。

何の心構えも出来ないうちに訪れた突然の不幸のようで、残された遺族の方々の悲しみややりきれなさを思うと心が痛んだ。悲しみを堪えて毅然と顔を上げる彼と、初めて拝見した遺影の中のお父上があまりにも似ていたのを見て、僕も、不意に目頭が熱くなった。

そしてその帰り道、いずれ訪れるであろう自分の両親や大切な人たちの「死」に、そして自分自身の「死」に思いを馳せた。

人は当然、誰でもいつかは死を迎える。そう頭では理解していながらも、順序通りでない「死」や、何の前触れもない突然の「死」は、遺された者を痛撃し、悲しみを倍増させる。思春期のころ、僕は必要以上にその恐怖に怯えていた。

家族や友人たちと「生きているうちにあと何回会えるのだろう」と考え、別れるときには「これが最後になってしまわぬだろうか」と怯えた。自分が何かしらの可能性を断ってしまうことを恐れて、自分から「さよなら」を言うことが出来なくなった。あと何回会えるか分からないのだから、いつが最後になってもいいように、全身全霊で向かいあい、毎回行き着くところまで行ききってしまいたかった。そして、それと同じテンションが相手から返ってこないと傷ついた。日常の平和の中でそういう「恐怖」が薄いことに憤りを感じ、自分または相手のどちらかが命に関わる病気になることを望んだり、戦争や大災害などの危機が起こることを望んだりしたこともあった。終わりがあるからこそ、限りがあるからこそ、毎回毎回の「出会い」を大切にして、いつでも真剣に向き合っていなければと本気で「闘って」いた。

周りの人間からしてみればとてもうっとうしい、そして自分自身も生きているのがとてもしんどかった時代の話である。

今ではそのときの「熱情」はどこへ行ってしまったのか、のんびりと平和に、淡々とした日々を送っている。そのことを「成長」と呼ぶのか、「老化」と呼ぶのか、「諦観」と呼ぶのか、「迎合」と呼ぶのか。

今日ひさびさに「死」を身近に感じて、あのころの「焦り」を思い出さなければいけないような、そんな気がした。

改めて。
No Day But Today.