BLue CaFe NeT

by HiRoo iNoue || ACTOR

草原の海

僕らは、だだっぴろい草原にいる。見渡す限りの草原。360°どこを向いても見渡す限りの草原。草原と雲しか見えない。あとは、君の背中。草原って言っても、背丈ほどある草が生えてるわけではなくて、かと言って、芝生みたいな感じでもなくて、腰よりちょっと高いくらいの、走ったら足にからんじゃうくらいの、そのくらいの丈の草。それが、見渡す限り一面に茂っている。そんな場所。僕らはその草原を走っている。結構なスピードで走っている。だけど僕は君ほど全速力では走っていない。全速力で走ったら、僕はたぶん君を追い越してしまうだろう。僕は、君の背中を見ながら走っていたかったから、少しだけセーブしながら走った。ふたりして、ワーッとか、キャーッとか、ウォーッとか、わけのわからない叫び声を上げながら走った。最初ははしゃいでいたのだけれど、強い風が吹いていて、風の音も結構凄かったから、どんなに大声出しても声がどこかに届いてる感じはしなくて、だんだん不安になっていった。途中からは声を出していないと自分が消えてしまいそうな気がして、不安を打ち消すために無理に大声を出した。たぶん君もそうだったんじゃないかな。ものすごいテンションではしゃいでるようでいて、実のところ、ものすごく悲壮感漂う、鬼気迫る感じだった。あとから考えるとね。とにかく、そうやって、僕らは走っていた。大声を出しながら。全力で。または全力に近いスピードで。君が先を走っていて、僕は君の背中を見ながら走っていた。とは言っても、ふたりは近い距離を走っていたわけじゃないんだ。なんといっても、見渡す限りの草原だからね。距離が近いほうがなんだか不自然な感じで。かろうじて姿が確認できて、かろうじて叫び声が聞こえるぐらいの、そのぐらいの距離は離れていた。縦に、じゃなくて、斜めに。あ、そうそう、なぜだか分からないけど、僕らはその草原を斜めに走っていた。見渡す限りの草原だから、縦も横もあったものじゃないんだけど、僕は確かに斜めに走っていると感じていた。なぜだろう。強い風を斜めに受けて走っていたからかな。でもなんで、追い風に乗るでもなく、逆風に真っ向から逆らうでもなく、斜めの方向に走ったんだろう。目的地があったわけでもないのに。不思議だ。とにかく、僕らは斜めに走っていた。草原を。草原の海を。これまた不思議なんだけど、草原とは言ったものの、僕がそのとき見ていた風景は、草の色じゃなくて、海の色だったんだ。緑色じゃなくて、ちょっと紫がかった、そんなに明るくない蒼い色。そんなに濃くもなかった。色が濃くないというより、色の密度が濃くない感じだった。そこに沈みかけている夕陽の、強烈な赤い色が混じって、この世の終わりみたいな、そんな風景だった。風が強かったから、背丈のそんなに高くない草たちも妙な角度に倒れていて、それを斜めに分け入って僕らは走った。あれ、いま思い出すと、記憶の中でそのとき、僕は何の音も聞いていなかったな。ふたりの叫び声も、風の音も、風に吹かれてなびいている草の擦れる音も、走っている自分の激しい息づかいも、もちろん聞こえていたはずだけれど、記憶の中では無音。無音の中で聞いている、そんな感じ。理屈じゃ変だけど、なんか、そんな感じ。とにかく、僕らは、見渡す限りの草原を、斜めに、無音の中、全速力で、走った。ずっと走り続けた。夢の中だから、僕も君もすごい体力でね。疲れはしたし、当然息は上がっているんだけど、でも現実では絶対こんなに走れないよ、ってぐらいには走った。沈みそうな太陽が沈まなかったわけだから、大した時間じゃないんだろうけど、とてもとても長い時間を走った気がした。走っている間に、僕と君との距離は離れたり近づいたりした。縦にも、横にも。でもなんとなく、これ以上近づいたら変だって距離があって、これ以上離れたら見失うって距離があって、その間の距離を行ったり来たりした。僕はいつでも君のうしろを走っていたから、主に僕が、その距離を調整していたんだけどね。君は僕にはお構いなしに走っていっちゃうから、僕がどこかで止まったり離れていっちゃったりして、この草原の中でひとりぼっちになっちゃってもいいのかなって思ったりもしたけど、実際そのことを想像して妙に加虐的な気分になったりもしたけど、でも、そんなことになったら僕が困るからやめた。結局、僕が距離をコントロールしているようでいて、実は僕を通して君が距離をコントロールしていたのかもしれない。そう思うと、少し、頭が、混乱した。とにかく、そうやって、僕らは走った。走って、走って、走り続けた。そして、ある瞬間、僕らは、唐突に、走るのを、止めた。止まった。その瞬間に何か特別なことが起こった記憶はない。体力の限界でそれ以上走れなかったというわけでもない。もちろんどこかの目的地に辿り着いたわけでもない。太陽は相変わらず沈みそうなまま真っ赤に輝いていたし、風は相変わらず強く斜めに吹きつけて、草を妙な方向に曲げていた。もしかしたら止まった瞬間、一瞬急に風が強くなったとか、向きを変えたとか、そんなことがあったのかもしれない。覚えていない。でも、なんにせよ、止まったあとは、また元の風景に戻っていた。僕たちは草原の海の中でしばらく立ち尽くした。相変わらず、聞こえるはずのあらゆる音は、実際には聞こえなかった。無音の中に、あらゆる音が聞こえた。僕はなんというか、神聖な心持ちがした。おごそかな感じ。厳粛な感じ。さっきまではいつまででも走っていられると思ったけれど、今度は、いつまででもそこに立っていられる感じがした。そして実際、かなり長い時間、そこに立っていた。示し合わせたように、君も止まった場所で動かずにただ立っていた。僕のほうを振り返りもしなかった。僕を呼びもしなかったし、僕も呼ばなかった。ただただ、ふたりしてその場で立ち尽くしていた。僕はたまに、君の背中を見た。背中を見ながら走っていたのに、なぜだろう。止まった場所で進行方向をまっすぐ向くと、ギリギリ君は僕の視野に入らなかったから、ほんの少しだけ首を左に動かして(君は左斜め前方にいた)君の背中を見た。不思議なことに君がどんな服を着ていたかを全く思い出せない。髪がさらさらと風になびいていたことは覚えている。とにかく、そうやって、僕らは、ただ、立っていた。その間、僕は何も考えていなかった。目の前に広がる草原の海をぼんやり眺めて、無音の中に聞こえる風の音や自分の呼吸する音を聞いて、シャツの中で止まることなく流れ出る汗を感じて、ただ、そこに、立っていた。そして、視界の外にいる君のことを、意識したり、忘れたりした。君のことを実際に見る間隔はどんどん長くなっていた。なんというか、首を少し動かすだけでも邪魔な動きのような気がしたし、君も同じようにそこに立っていることは分かっていたから、実際に見る必要を感じなかった。そして、かなり長い時間、君のほうを見ないままの時間が過ぎた。風は次第に弱まってきた。太陽は次第に沈んで暗くなってきた。流れ出た汗が冷えて急激に寒くなってきた。僕はハッと我に返り、君のほうを見た。太陽が完全に沈んでしまったらはぐれたままになってしまう。とりあえず触れられるぐらいの距離にいないと心配だ。僕は、少しだけ首を動かして、君のほうを見た。君はいなかった。君は消えていた。隠れられるところなんてどこにもない。見渡す限りの草原だ。あり得ないとわかりつつ、違う方向も見た。360°確認した。君はいなかった。あちこち確認したら、もともとどっちを向いていたのかわからなくなった。見渡す限りの草原だ。どっちを向いても同じ景色だった。太陽の沈む方向と、風の吹きつけてくる向きを頼りに、君のいたはずの方向へと走った。でも、太陽はどんどん沈んで、風はどんどん弱まって、僕は完全に方向を見失った。大声で君を呼んだ。おーい。どこにいるんだ。返事してくれ。大声を出しても、相変わらず無音だった。そしてなにより、僕には、君の名前がわからなかった。暗闇が訪れた。時間は止まった。僕も消えた。熱にやられて、そんな夢を見た。頭が痛い。