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by HiRoo iNoue || ACTOR

DULL-COLORED POP『あつまれ!「くろねこちゃんとベージュねこちゃん」まつり』創作メモ 〜俳優編

DULL-COLORED POP『あつまれ!「くろねこちゃんとベージュねこちゃん」まつり』、無事に全公演が終わりました。非常にハードで困難を極めた公演でしたが、誰一人怪我をしたり病気をしたりすることなく、たくさんのお客さんにご来場頂き、さまざまな意味で「成功」と言っていいであろう公演になりました。ご参加頂きましたみなさま、お手伝い頂きましたみなさま、そして何よりご来場頂きましたみなさま、本当にありがとうございました。 こういう「おまつり」企画だったこともあり、今回の企画を個人的に振り返るべく、メモを残すことにしました。俳優として、そして演出家として、それぞれ振り返ってみたいと思います。

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稽古初日から千秋楽までを数えると7週間。僕にとっては、おそらく人生にとって一番ハードな日々だった。シミュレーションをし、前もってできる準備はできる限りして、乗り切れる算段はついていたはずなのに、実際にはまったく想像できなかった困難と混乱にぶちあたってしまった。そしてその大部分は、不慣れな演出や制作業務ではなく、本来の自分の専門である「俳優」の仕事の部分にあったことが驚きだった。これは本当に予想外のことで、僕自身相当に混乱をし、しんどい日々が続いた。

僕が演じた役は、39年連れ添った夫が突然の事故によって急逝。葬儀などが一通り済んだ日の「母」よし子。長男・長女がひさびさに家に集まる中、夫の書斎机の中から「遺言書」が見つかり、夫は自殺だったのかもしれない、自分は良い妻・母ではなかったのかもしれないという怖れに苦しむ、役だった。

今回「俳優」としてこの作品に関わるにあたり、ここまで混乱し困難を極めた理由はいくつか考えられる。

ひとつめは、自分自身が演出したバージョンと、俳優として参加したバージョンの「世界観」がまるで違ったことがあげられる。作品全体の解釈、シーンの解釈、役の解釈、またはその表現の仕方が全然違った。でも、同じセリフで同じ物語。そのことが想像していた以上に僕を混乱させた。目に映る風景、聞こえてくる声や音、間合い、などがあまりに違いすぎる。相手役の造形がまるで違いすぎる。2つの世界が僕の中で融合されずに同時存在するような感覚。脳が痺れ、情報処理能力が著しく低下し、異常なまでの不安定な状態となった。うまく説明できないけれど、それは一種「恐怖」に近い感覚。ホラー映画の登場人物のような感じだった。震えたり、呼吸が苦しくなったりもした。この感覚は、稽古中はもちろん本番に入ってからもずっと続き、千秋楽まで解消されることはなかった。これが「違う」作品であればきっと切り替えられていたのだろう。「同じ」作品なのに「違う」世界観であったからこそ、うまく切り替えることができなかったのだ。そう考えると、おそらく今後二度と経験することのないことだろう稀有な体験をしたとも言える。

ふたつめは、外部に頼るべきものが少なかったことがあげられる。この作品は「会話劇」の体裁を取っているが、俳優として出演したバージョンは、演出的に会話劇の手法を取っておらず、お互いの関係性や行動・反応というロジックで作られたものではなかった。僕は完全に「会話劇」のロジックで演技を構築しているものだから、聞いてもらわなければセリフは言えないし、話してもらわないとセリフを聞くことができないというめんどくさいタイプの俳優だ。今回はある意味「スタンドプレー」の集合のようなバージョンだったため(その良さももちろんあった)舞台上で頼るべきものが非常に少なかったことが、僕を不安に陥れた原因でもあった。稽古時間も少なかったし、関係性を築き上げる時間も足りなかった。さらに言えば、普段頼りにすべき舞台美術や小道具などが存在しなかったということもあった。「無対象」でやるということで、そこもまた想像力を使って補わなければならない。実体として頼るべきものがなかったことがさらに困難さを増大させた。

みっつめは、今回自分の「やりたいこと」を全て演出の方に注ぎ込んだので、逆に言えば俳優としてのバージョンの方では「やりたいこと」を封印し、「演出家の言いなり」になろうと臨んだことがあった。普段だったら絶対にそんなことはしないけれど、今回のこの企画なら、そのように臨むことが面白いだろうと直感的に思ったからである。でも実際にはそんなことは無理だった。やりたいことや自分の信念なしに、舞台に立つことはできない。そのことに気づいたのは、稽古中盤に差し掛かったころだっただろうか。そのころから、演出に従う範囲内で、自分の思う「よし子」像を作ろうと心がけた。もっと言えば、僕の演出チームで作りあげていた「よし子」像と、僕自身の持つ記憶や想像力を総動員して、僕なりの「よし子」を作っていった。僕と谷くんは、ここまで違う雰囲気のバージョンを作っているにも関わらず、驚くべきことに、戯曲の深い部分での解釈においてほとんど違っていることがなかった。僕が演出しているときに使っていたいくつかの比喩とまったく同じ比喩を谷くんが稽古場で使ったこともあったりして、そのシンクロ具合に驚いたりもした。なので、谷くんの演出をスタートに僕が作っていった「よし子」は、谷くんが当初想像していたものとは違っていたのかもしれないが、結果的に谷くんが思う「よし子」とそんなに違っていなかったのだと思う。根本的に解釈がシェアされていたことで、僕はなんとかこの役をやり遂げることができたように思う。演出家である谷くんとの共同作業は、今まで以上に楽しいものであり、そのことが唯一よりどころにしたことだった。

「女性」であり「母」である今回の役、演出として「狂人」であるという要素を加えられたことでさらに、僕自身から遥か遠くの人物を演じることになった。でも僕は俳優としての信念で、「女性」や「母」や「狂人」を「演じる」ことからどうにかして逃れようともがいた。戯曲に書かれていることに素直に従えば、それは結果的に見えてくるものだと信じているからだ。僕の中にも存在する、この役に必要な「要素」を総動員して、どうすれば「結果的に」そう見えるかに苦心した。その際には、昨年父が亡くなり、ひとり遺された母を見てきたことがとても役立った。僕は「よし子」を演じながら、ずっと自分の両親のことを考えていたように思う。今回谷くんから『涙のよし子』というニックネームをつけられたが、その涙は実のところ、父への涙であり、母への涙であり、僕自身の涙であった。それでもその結果、僕が「女性」や「母」や「狂人」に見えたのだとしたら僕の試みは成功だと言える。失敗だったとしても、僕はそうする以外に、今回の役を演じることは出来なかった。


とはいえ、今回の役のように、自分から遠く離れた役、そして物語全体をひっぱる「主役」をやるというのは、俳優にとって本当に得がたい経験だった。大変だったし、既に述べた通りの怖ろしい経験であったが、この役をやれて本当に良かったと、今は思っている。最後の公演のときには、疲れすぎていたことが功を奏したのか、いわゆる「ゾーン」のようなものに入ってしまって、演じるという意識が限りなく少ない状態で舞台に立つことになった。これまでに生まれたことのない演技が次々に生まれているのを、どこか僕自身は遠くからぼんやり眺めながら、もうひとりの自分が自動的に役を演じているような、初めての感覚があった。あんまり良く覚えていないが、僕にとって忘れられないステージとなった。ひさびさに「つか芝居」風の演技ができたのも楽しかった。

また「女性」の役をやってみたい。

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