BLue CaFe NeT

by HiRoo iNoue || ACTOR

DULL-COLORED POP『あつまれ!「くろねこちゃんとベージュねこちゃん」まつり』創作メモ 〜演出編

僕は、4年ほど前に「actors' playground」という、俳優だけが集まって「演劇」について「演技」について深く追求していく企画を立ち上げました。俳優とはどういう仕事なのか。俳優にとって必要なものはなんなのか。足りないものはなんなのか。そんなことを俳優同士で見つけあっていく「遊び場」にしたいと思い、断続的に今も続けています。僕にとってひとつの拠り所となっているこの企画で、2016年1月に一度劇場公演を行いました。それは今回のねこまつりととてもよく似た企画で、2作品で計4チーム、30人以上の俳優が参加したものでした。僕は1作品で演出を、もう1作品では出演をしました。このあたりも似ています。今回のねこまつりでは、このときの経験と反省が大きく活かされました。特に「演出」はそのときに続いての2回目だったので、前回できなかったこと、失敗してしまったことを踏まえて、今回こそは!と挑んだ作品でした。僕の備忘録として、創作メモを残しておこうと思います。

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僕はもともとこの作品を初演・再演とも観客として観ており、今回演出するにあたり初演の映像を繰り返し観たのだが、誤解を怖れずに言うと、僕はこの作品がまったく好きではなく、この企画を最初に聞いたときも、出来れば他の作品を演出させてほしいと提案したぐらいだった。で、結果的にこの作品をやるとなったときにまず考えたのは、オリジナルバージョンを大きく変えて作りたい、僕なりの解釈で再構築したいということだった。今回は「まつり」ということで、僕の演出作品だけでなく合計4バージョンも作られる。谷バージョンはもちろん、初演・再演に出演している東谷・百花もオリジナルに沿った作品を作るだろう。だったらその中に1チームぐらい、まったく違う毛色の作品が混じっていてもいいだろう。いや混じっていた方が面白いだろう。それがこの作品の「正解」でなかったとしても、そこに挑戦することは「この企画としての」正解にはなるだろう。それがまずスタートになった。

演出をするにあたって戯曲を読み返し、オーディションの前に僕が決めていた方針はいくつかあって、

・リアリズムを追求した会話劇として再構築する。
・男性が演じることを前提に書かれた「よし子(母)」を女性にする。
・これまで女性2人が演じてきたねこたちを、男女のペアにする。
・「ゆき男(父)の死」を物語の軸に置く。
・登場人物全員が互いに愛し合っていて、そこに「悪意」は存在しない。

あたりのことを大きな方針として決めて、オーディションに臨んだ。僕の中でそれぞれのキャラクターがはっきりしていたので、オーディションでの選考にはほぼ迷わなかった。ねこの役は、ねこを演じ、同時に母を演じなければいけないので、特に男性にキャスティングすることにした「黒ねこ」は選考が難しく、オーディション外から結城洋平くんを呼んだ。また今回、「ゆき男(父)」の役に負ってもらう部分が(出番は少ないけれども)とても大きかったので、やはり選考が難しく、この役もオーディション外から斉藤直樹さんを呼んだ。でもそれ以外の役は、僕のイメージぴったりの人たちがいて、迷うことなくキャスティングを決めることが出来た。初めてオーディションで出会った人たちも数人いたが、今思えば、このキャスティングの時点で、今回の作品はある程度保証されていたのだなあと思う。最高のキャスティングを揃えて、稽古を始めることができた。

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稽古スタートは1月8日。稽古期間としては長めの設定をしたが、4チームがひとつの稽古場をシェアしながら稽古を進めたので、1チームあたり稽古できるのは1回5時間程度、2日に1回ぐらいのペースだった。稽古の環境としてはベストとは言えない環境の中で、しかも潤沢な稽古時間が確保できない中で、どのように進めていくのかが鍵だった。

今回の作品は「家族」という、一番近しい間柄の、社会の最小単位を扱ったものだ。そして「父親の死」によって、遺された家族がどう思い、どう行動していくのかがこの作品の軸となる。となればまずは、父親を含めた家族を演じる俳優たちが、まずは「家族になる」ことからスタートしなければいけない。

なのでまずは、この家族たちがそれぞれどういう人物なのか。どのような人生を生きてきたのか。父と母はそれぞれどのような育ち方をして、どのように出会って、いつ結婚して、いつ子供たちが生まれて、子供の成長とともにこの家族がどういう時間を過ごしてきたのか、徹底的に話し合った。そして父親が死んだ日からこの物語で描かれる日までの1週間がどのような日々であったのか、ここについても徹底的に話し合い、エチュードを重ね、演じるにあたっての土台を作っていった。家族を演じる俳優たちが少しでも「家族」に近づけるように、たくさんのエクササイズやエチュードをやり、共通の記憶を作ったり、関係性を作ったり、身体の感覚を作ったりした。

今回の作品には、死んだ父親がまだ生きていた頃の「回想シーン」が登場する(4場・7場・10場)。その回想シーンにおいて、母の役をねこたちが演じることになるのだが、まずはこの3つのシーンから稽古をスタートした。最初はねこたちではなく、母役の清水直子さん自身に全てのシーンを演じてもらって稽古をした。

この家族たちのシーンにかけた時間は膨大で、しかも具体的なシーン稽古以外にかけた時間が膨大で、とにかくたくさん話をして、たくさんエクササイズやエチュードをした。そのことが今回の作品の土台を作ることに繋がった。具体的にどこのシーンのどの部分に役立ったか、とかではなく、全ての瞬間がこの土台の上に乗っていた。一見遠回りなような、無駄な稽古のようであり、俳優たちも不安に思ったこともあったと思うが(僕も含めて)、結果このやり方は間違っていなかったと確信している。

「父と母の初デート」とか、「父の死体と対面したあと帰宅した家族3人」とか、「父の病気を診断されたあとの夫婦」とか、「父の葬儀」とか、さまざまなエチュードをやったけれど、そのどれもが素晴らしいもので、僕は今でもその光景がはっきりと記憶に残っている。それが今回の作品の血となり骨になっていたと思う。清水直子・斉藤直樹・渡邊りょう・橋本ゆりか、という、繊細で、誠実で、優しくて、賢くて、温かい4人がこの家族を演じてくれたからこそ、この作品は成立したのだと僕は心から感謝している。互いが互いを「愛している」「愛されたい」ことから生まれる「悲劇」としてこの作品を作りたかった。「愛」があるのに生まれる悲劇であることが僕にとっては重要なことで、そのためには4人がまずは「家族」であることが必要であった。この4人の作った家族は、本当に素晴らしい「家族」だったと思う。

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家族ではない「他人」として登場する、まち子(長男の嫁)と高梨(家政夫)は、オリジナルのバージョンと比べて、まるで違う人物にしようと考えた。

まち子は、オリジナルバージョンでは「悪妻」として描かれるが、僕はまるで逆の人物として作りたかった。夫を愛し、夫の母である姑のことを気遣い、常識があって魅力があって、他人の気持ちを慮れる女性として描いた。姑とは生きてきた環境が違い、生きてきた時代が違い、完全に価値観が相容れない。でもだからと言って、そのことに対して否定もしなければ、過度に理解しあおうとも思わない。ただ「違う」というだけ。姑のことを気遣いもするが、でも大事なのは、自分と夫との間の「未来」の人生。「母」は過去に縛られて、過去を想って生きているが、「嫁」は未来が何よりも大切。それこそが、よし子(母)とまち子(嫁)の間に横たわる大きな「違い」であり、それはどちらが正しくてどちらが間違っているものではない。当たり前のように存在する差異。「他人」だからこそ、その違いを冷静に受け入れて、違ったままでいいと判断できる。そういう人物としてまち子を描きたかった。演じた野村由貴は、オリジナルバージョンから大きく変えたこの役を、見事に演じてくれて、僕の思う人物像を具現化してくれた。

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高梨もまた、オリジナルバージョンではかなり「怖い」人物として描かれ、よし子からの重なる愚弄に対して最後しっぺ返しを食らわす役として描かれるが、僕は最初からまったく違う人物像を考えていて、それを何とか立ち上げようと試みた。まずキャスティングの段階から大きく気にしたのが、高梨は、ゆき男を思い出させる存在だということ。ゆき男と高梨を「似た」人物に設定しようとしたことだった。このふたりには「カメラ」という共通点が設定されている。写真家になりたかった夢があり、その夢に破れたという共通点がある。おそらく他人に対して優しくて、柔らかくて、繊細な一面も共通しているであろう。よし子がなぜ高梨に心を許すかと言えば、それは死んだ夫に似ていたからだ、というのが僕の解釈だった。なので、この二役に似たタイプの俳優(斉藤直樹・細井準)を置き、衣裳や小道具、登退場に至るまで、二人のイメージを重ねた。そして最後高梨が暴力を働くところも、詳しくは書かないが、高梨という人物にたくさんのバックグラウンドを設定することにより、単なる暴力ではない、彼の中にある巨大のドラマを設定した。演じた細井準は、この難しい役を本当に良く理解してくれて、彼からのアイデアも取り入れつつ、僕の描いたこの人物を作ってくれた。

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今回、どこかファンタジーの要素もあるこの作品をリアリズムで構築していこうというときに、やはり問題となるのは「ねこ」という存在だった。でも僕は思い切って、ねこも含めてリアリズムで攻めていこうと決めた。そのことにより逆に「ねこ」という存在を成立させられるのではないかと考えた。

この戯曲における「ねこ」は、当然のごとく主人公であるよし子の「分身」だ。ねこと会話している「茶番シーン」と呼ばれているところは、よし子が、よし子自身と対話しているシーンである。それに加えて当初から考えていたのは、よし子にとって、ねこたちを「理想の息子・娘」にしようということだった。実際の息子と娘はよし子にとって厄介な存在となっていくが、ねこたちはよし子の理想の姿のままでいてくれる。そういう意味で、僕は絶対的にねこたちを男性と女性にキャスティングすることが必要だった。

その上で僕が「ねこ」を考える上でさらに追求したのは、なぜあそこでねこが現れ、なぜあそこでねこが去っていくのだろうか、ということだった。そしてねこたちはよし子に何をしているのだろうか、どうなればハッピーなのだろうか。

僕は「ねこ」を人間よりも「強く大きな」存在として描こうと思った。ねこたちは人間よりもずっと過酷な環境で生きている。そこを生き抜いてきた「黒ねこ」と「茶ねこ」はそれぞれに、人間よりも深い「人生哲学」を持っている。「茶番シーン」は、よし子が自分の分身と話しているのと同時に、よし子よりももっと「強く大きな」存在であるねこたちが、よし子に対して「人生哲学」を語っている、教えているシーンなのだと僕は考えた。この作品の1場は、よし子とねこ2匹の3人でスタートするが、僕はこのシーンを「哲学論争」のシーンと名付けて稽古をしていた。『いかにして生きるか』という巨大な問いに対して、それぞれが自らの哲学を語る。よし子が主に喋っているのだけれど、実はねこたちの哲学の方がさらに先を行っていて、だからこそねこたちは余裕をもってよし子を見守り、彼女の話を聞いている。そういう、強くて大きくて、だからこそ優しい存在として「ねこ」を描いた。

僕のバージョンでは、特に後半、ねこたちは舞台上において、特に派手な動きもなく進んでいく。他のバージョンではあれだけ動き回っているから、それと比べるとあまりにも地味な描き方に見えるかもしれない。実際SNS上で「ねこの描き方が不満。ただ見ているだけで介入もしない」みたいな感想を読んだりもした。でもあれこそが僕が「ねこ」に託した役割だった。人間よりも先に行っているねこたちは、人間たちの生き方をただ「見て」ただ「受け入れている」。そこに対して「判断」を下さない。善悪を「裁かない」。ただ「見ている」。全てを理解して、受け入れて、でも肯定もせず否定もしない。言ってみれば「神の視点」のような存在として「ねこ」を置いた。作品の中で描かれる巨大な「問い」に対して、ねこたちは答えを出さない。答えはない。答えを出さないまま、答えがないまま、ねこたちは舞台を降りていく。それが僕の描きたかった「ねこ」だった。

黒ねこを演じた結城洋平と、茶ねこを演じた瑞帆は、どちらも僕がもともと知っていた俳優で、いわゆる普通の意味での猫っぽさもあり、母親を演じるにあたって必要な愛情深さもあり、そして今回僕が「ねこ」に託したかった「強く大きな、そして賢く冷静な」存在をも演じられる俳優であることを僕は最初から知っていた。それでも、実際それを立ち上げるのはとても大変な作業だったことと思う。ねこのセリフは、ぶっ飛んだ変なセリフが多い(良い意味で)。そのセリフを使って、ここに書いたようなことを「行動」として起こしていくことを要求したわけで、それは本当に難しいことであったと思う。それを素晴らしくやり遂げてくれて感謝しかない。

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今回僕は、作家である谷くんの了承を得て、だいぶテキレジを加えた。セリフをカットしたり、セリフを入れ替えたり、既にあるセリフを別の人物のセリフに変えたり。一部ではあるけれど僕自身がセリフを加えたりもした。でも逆に、谷くん本人が上演にあたってカットしたセリフを、僕は復活させたりもした。テキストに手を加えることを快く受け入れてくれた作家谷賢一の度量の深さに、この場を借りて感謝したい。

テキレジだけでなく、演出全体についても、これだけ大きく変えているのにも関わらず、何一つ文句を言わないどころか「全く問題ない。面白い」と言って背中を押してくれた。途中僕自身がちょっと悩んでいたときも「順調に進んでいて何の問題もないではないか」と励ましてくれたりもした。これだけ異なる美術プランを提示したことで、予算的なことや実務的なことで反対されるかもしれないとビクビクしていたが「これだけ世界観がはっきりしているのは素晴らしい。可能な範囲でお金をかけて追求しなされ」と言ってくれた。劇団主宰であり、作家であり、総合演出である谷くんから、全稽古期間を通じて肯定と励ましをもらい続けたことが、僕にとっては大きな力となった。本当にありがとう。

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今回特にこだわったのは、いかにして「ゆき男(父)の死」を軸に据えるかということで、オープニングについてはものすごく時間をかけて考えた。こんなにテキストをカットしたというのに、なぜか「前説」だけは作家に敬意を表して残そうと思っていたので、どうにかして前説を使ってそれが表現できないかとかなり悩み抜いた。結果、あのような「前説」が出来上がった。

そして、ゆき男の死によってねこたちが現れ、よし子とねこが「出会う」というシーンをどうしても作りたくて、最初の1分半ほどのパフォーマンスを作ったが、ここにもかなり時間がかかった。僕の中ではっきりとしたイメージがあったが、それを具現化するにあたっては、元ダンサーであり身体を使うことのプロである直樹さんに多大なる協力をしてもらった。僕と直樹さんの共同演出シーン。直樹さん、ありがとう。

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また、今回僕が個人的に泣きついて、音源の編集から劇場でのセッティングに至るまで、ボランティアでたくさんの力を貸してくれた音響家、シュガーこと佐藤こうじにも感謝が尽きない。彼は、2016年の僕の企画のときにも全面的に力を貸してくれた。今回も忙しい中、僕のめんどくさい要求をいちいち聞いて音源の編集をしてくれた。ありがとう。

そして、僕のチームだけでなく4チーム全体の照明プラン、そして全ステージのオペをやってくれた榊美香ちゃん。風琴工房/serial numberで何度も現場はご一緒しているけれども、今回は慣れない「演出家」としてみかちゃんと接することとなり、ものすごく緊張した。僕の拙い言葉で、何とか伝えようとしたイメージを、汲み取ってくれて、形にしてくれて、そして毎回作品に寄り添って明かりを出してくれて本当に感謝が尽きない。このハードスケジュールの中、ギリギリまで修正や変更、そして稽古をして迷惑もかけた。本当にありがとう。

最後に、今回僕自身とても大変になるだろう、誰か僕の助手みたいなことをやってもらえる人がいてほしいということでお願いした杉森裕樹くん。彼自身俳優であり、以前僕の企画の公演に参加してもらったときに、ダントツで作品への愛情を持って関わってくれた彼に今回声をかけてみたら、喜んでOKをしてくれて、僕の期待を遥かに超える働きぶりを見せてくれた。彼がいなければ、こんな風にうまく日々の本番は回せなかったことは間違いない。たくさんの愛情、本当にありがとう。

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今回集まってくれた8人の俳優たちは、本当に僕好みの、素晴らしい俳優たちだった。僕の好みで選んでいるからなのか、なんかみんなちょっとずつ似ていて、最初から統一感のある雰囲気が生まれていた。相性も良くて、エクササイズやエチュードなどでは、何度も大笑いさせてもらい、何度も涙を流した。最高だった。演出の立場にいながら、僕も俳優としてこの座組みに混じりたい、とまで思った。

稽古中はもちろん、本番に入ってからも、僕の細かくて、容赦ない演出に付き合ってくれた。本番に入ってからはまったく時間がなかったので、毎日LINEでノート(一般的にはダメ出しと言われているものです)を送っていた。毎日最低でも10000字は超えるものだったと思う。セリフのひとつひとつ、間のひとつひとつ、動きのひとつひとつ、細かいところまでねちねちとしつこく最後まで追求し続けた。でもそのおかげで、日々作品は成長を続けていった。大変だったと思うけれど、僕を信じて、委ねてくれて、格闘を続けてくれて、本当にありがとう。ありがとうございます。

今回の作品に僕は満足しているけれど、「理想」とするものへはまだ先がありました。でも理想というのは遥か遠くに存在するものだろうから、これからも引き続き、先を目指して切磋琢磨していきたいと思っています。その過程でまた、今回の仲間たちと共に格闘できたら。このメンバーで劇団作りたいぐらい。またどこかで。

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最後になるけれど、今回予算の都合もあり、舞台上には僕の家のものが溢れかえっていた。舞台上手に置いてあった籐の椅子は父が死ぬまでずっと座っていた椅子、ローチェストもうちのもの。直樹さんが着ていた服も父の遺品。飾っていたものもたくさんうちから持っていった。

飾ってあったカメラは直樹さんのお父上の遺品。着ていたシャツもお父様の遺品。

今回の作品を作るにあたり、昨年僕自身が父を亡くしたことは否応にも大きな影響を与えました。

稽古でも何度も話したことなのだけれど、「よし子(母)」の愛ゆえの「エゴイズム」や、「けん太(息子)」「とも美(娘)」の愛ゆえについてしまう「嘘」や、「高梨」の愛ゆえに働いてしまう「暴力」や、そういうあれやこれやを何とか『肯定』できないかと考えたのは、父を亡くしたことが大きな契機だったと思う。

お父さんにも、ありがとう。
寝床を貸してくれたうちの「黒ねこ」にも、ありがとう。

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